政治的・歴史的な話になると、結構思想だなんだのセンシティブな話になってしまうから、書きづらいテーマなのだが、昭和史のドキュメンタリーなどを見て思うことがあったので、私なりに思ってることを書いておく。

前エントリでもちょっと書いたが、私は近現代であれば「歴史」ということを考える時、出来るだけ当時の人達の考えを参考にしたいなと言う気がする。特に今日記事に書くような大戦は色んな国や人が主義主張を語るし、現代で色んな本が出ているが、可能であればそういった情報より、当時の人に近く寄り添った新聞や映画を見ることで、当時の人達が何を考えていたのか、何を見ていたのか追体験するのが、一番良い方法だろうなあと思っている。私はこういったことを「良いこと」だと思っている。

実は大正時代以降に「日米架空戦記」という小説の体裁をとった論考というのが流行ったことを知っている人は軍事オタクくらいしか知らないと思う(私はミリタリーにはそんなに詳しくないのだが)。 当時の新聞記事とかを見てみると、移民差別問題と軍縮問題はかなりセンセーショナルなくらいマスコミに取り上げられていた。この中で、日米関係の悪化を懸念する声は当時からあり、実はちゃんと問題に真剣に取り組んでいる人達がいた。 この中には日本バンザイ、アメリカバンザイと煽っていた人もいたし、そうでない人もいる。 代表的なのがH.C.バイウォーターというイギリスの人で、当時の海軍の人はまさに軍人頭という感じで「自分達を嘲笑う小説だ、現実にはしまい」と思ってはいたそうだが、かなり参考にしていたらしい。時の山本五十六が参考にしたというのは、逸話だと言う。

その中に「水野廣徳」という人がいる。

私は学生時代、古い新聞を調べている中でこの人の寄稿が目に入り興味を持った。この人は海軍出身の人で、「此一戦」はとても有名な本だったが、のちにWW1の惨禍を見て平和主義者に転じたことで、当局に目をつけられた人である。

私達は太平洋戦争だのなんだのを平和教育の下に、現実におきた悲劇だけを学んでしまう。なんというか、「火垂るの墓」もまるで「寝耳に水」のような感覚を受けてしまい、まるでたまたま起こった災難のように感じる人は多いと思う。

しかし、実は色々な部分で遥か前から警鐘を鳴らしていた人は何人もいたということは知った方が良いと思っている。そもそも、当時の資料を見ると、結構前から当局すら「これはヤバイ」と分かっていたことは多かったことに驚かされる。そういったことを踏まえると、随分と過去に対する感想は変わってくる。

疑問を呈した人の中でも、この人が秀逸だったのは、例えば南洋が暑いだとか、北の海が寒いだとか、そういった肌感覚から市井の人々の生活事情まで、よくよく知っていたことだと思う。そういった筆致で、「その後」まで予見していたことだ。つまり、復興や冷戦の事情まで見過ごしたかのように、色々なことを書いている。これはすごいことだと思う。

この人の1930年の小説に「海と空」という小説がある。この小説の終わり方は本当に思うものがある。この人の「海と空」ないし「開か破滅か 興亡の此一戦」は本当に後世に遺すべきだと思う。「海と空」の終わり方は本当に象徴的なのでちょっと引用してみる。

気になる人は国会図書館のアーカイブで読める。

嗚呼東京!
曾て亜米利加の援けに依って復興した東京が、今また亜米利加に依って壊された。
巡り合はせの因縁だ。我等は我等自身の手に依って三たび我等の東京を復興せねばならぬのだ。
一人と雖も徒らに死ぬべき時ではない。
春の草木が芽を生く如き我新興日本の伸んとする此力を何者も弾圧することは出来ない。だが我等は誤った。

戦争する積りなら、するだけの準備が必要であった。
戦争しない積りなら、しないだけの心掛が必要であった。

するだけの準備もなく、しないだけの心掛もなく
唯勢と感情とに引摺られて漫然と始めた此の戦争
こうなる結果に不思議はない。
それは誰の罪でもなく、我等国民の罪だ。
我等は東京の復興と共に新興日本の国策を確立せねばならぬのだ。

と、彼は固き決心と、強き勇気と、そして輝かしき希望の色をさへ面に浮かべて、何れかに去った。

驚くべきことだが、これが書かれたのは戦後でも戦中末期でもない。戦前だ。

水野廣徳は争いなんてやるより、産業の振興とよき文明生活を人々が送れることが、最も尊いことなのだと著書で悟っている。つまり、戦車だなんだのよりラジオみたいな平和的技術の上にある身近な生活の享楽を、ありのままに受け入れることだ。国や世界の安泰を保つには、そういったものにこそ重点を入れるべきだと言う言葉は実にまっとうだと思う。だからこの人は現在では、いわゆる某政党のような「非戦主義者」系の人しかあまり引用しなくて、今の日本人でも拒否反応を示す人がいるだろうが、この人は真っ当にドンパチの仕事もして、そういうことに行き着いた人だし、中身では濃密な軍事知識も踏まえてのことだ。その主張は、本当に、まるで戦後の日本の姿勢そのものではないか…と唸ってしまった。

当時の帝国の歯車が諸々狂い出したのは色々な人の意見もあるだろうが、「奉天事件」が最初のきっかけだったのは多くの人が思うところだと思う。この本が出版されたのはその後、まさに大不況が蔓延る昭和恐慌中の1930年4月。

私自身はこの「1930年」、つまり「昭和5年」は、かなりのターニングポイントだったのでは、と言う感想を持っている。日本史習った人なら誰でもやる「統帥権干犯問題」がかなり大きかったんじゃないかと思っていて、当時の濱口首相銃撃事件がかなり最悪な形で方向性を変えたポイントだったと思っている。これは当時の11月の頃。その数年後あたりから、当時の新聞や映画といったものを見る限りは、段々私にはキナ臭くなっていったように思えていて、当時の人々の心理を塗り替えていくような、そんな空気を追体験したように思えたのが、私の感想だった。歴史というものはこういった非常に短い間のポイントが何かを大きく変えてしまうのだろうか。そんなことを感じてしまう。

当時は関東大震災後の復興から今の東京の原型みたいなものが出来てきており、日本の漫画文化の萌芽の一つとも言える「黄金バット」の紙芝居が出てきていて、今で言うコンカフェやキャバクラのはしりみたいな「カフェー」だとか、ジャズやクリスマスのような文化も入るようになって、東京や大阪では丁度現代に至る「近代日本文化」みたいなのが出来てきた頃なんだと思う。銀座や浅草の街にはネオンサインが光るような、そんな町並みになってきた頃だ。一方で、農村は江戸時代同然だったし、労働争議も色々激しくなってきたような時期で、「欧米的なもの」をとにかく忌避する保守的な人が出ていた。「近頃の若者はクリスマスなんてけしからん」って言う人が出てきているのだが(ちなみに当時のクリスマスは、今で言う渋谷のハロウィンみたいなノリだったそうで、言った人は、機関説問題を猛追撃した上杉慎吉である)、こういったものが老人の笑い話ではなく、ガチのカチコミで排除する雰囲気が蔓延していく。最初は当時の共産主義への恐怖的なところが一番だったのだが、自由主義や民主主義的、というか市井の文明的な生活みたいなところまで、数年後には攻撃されるようになっていくのは多くの人が知るところだ。そんなところに、時代の狂気というものを感じる。

少なくともこの人の寄稿は目をつけられた訳だが、新聞や中央公論みたいな、いまなお続く有名雑誌に載っていたり、高校日本史をやるとちょっと出てくる、「斎藤隆夫演説」も賛同の声が色々あったようなので、当時の国際情勢と国家情勢とをかなり理論的に鑑みて、「これはちょっとおかしいんじゃないか」って見識はそれなりの人々には共有されていた筈だったのだろう、というのが私のかつての驚きだった。

当時の人も、勿論そんなにただ大和魂にあけくれた人間ばかりだけでなく、ちゃんと考えて疑問をもった人は沢山いたはずなのだった。今では「後から論」に言われている多くが、実は色々な資料を見ると「予想されていた」ということが分かってしまうと、本当に歴史に対する感想が変わる。そういう人も、やがて何も言えなくなったり、考えを変えざるを得なくなってしまっていったのか、という空気感を、無力感とともに感じる。

どうにかならなかったのだろうか、どうすればよかったのだろうか、と物凄く思う。なにせ、後世の人にとっては「どうでもいい」し「それを選んだのが今の現実」と思うかもしれないが、やはり被害は甚大さは見過ごせない。過去のことを考えても仕方ないのかもしれないが、こういった話を知ると、ifというのはとても考えたくなる。